吉川家の始まりは約850年前の平安時代末期に遡ります。
後の江戸時代には周防国岩国藩の藩主として、現在の岩国・柳井・和木地域を治めました。
明治時代以降、山林経営を始め、昭和22年に吉川林産興業株式会社を興し、林業経営に着手して現在に至ります。
始祖(平安末期~鎌倉時代)
吉川家の始まりは、藤原氏南家の支流で駿河国入江庄に居住した入江景義の嫡男・経義が、入江庄吉川(現・静岡県清水区)に居館を構え、吉川と称したことによります。寿永・文治の頃(1183~86)のことです。
経義は源頼朝の側近に随従していた鎌倉武士で、文治5年(1189)の奥州征伐、翌年の入京、さらに建久4年(1193)の富士の巻狩などに参加しています。
2代・友兼は正治2年(1200)、鎌倉幕府にそむいて西走した梶原景時一族を駿河の狐ヶ崎にて要撃し、これを討滅させました。しかし、自らもその戦いで命を落としています。なお、友兼が用いていた太刀・狐ヶ崎為次は後に、国宝に指定されました。
3代・朝経は、友兼の功績により、播磨国福井庄(現・兵庫県姫路市南西部)の地頭職を得ました。
4代・経光は、承久の乱(1221)で戦功をあげ、安芸国大朝本庄(現:広島県山県郡北広島町)の地頭職を与えられています。そして正和2年(1313)5代・経高のときに、本拠を駿河の吉川から安芸の大朝に移しました。なお、経高の弟たちは、分割譲与の所領に根をおろして、播磨、石見、駿河、それぞれの吉川家始祖となりました。
毛利家との姻戚(南北朝時代~戦国時代)
南北朝時代には、吉川一族は南北に分裂しましたが、石見吉川の経見が惣領家を継ぎ8代となってからは、再び勢力を増しました。
11代・経基は、応仁の乱(1467)において同行、東軍(細川勝元)に属し、勇名を馳せる一方で、和歌・連歌・禅籍を書写するなど、文化活動も活発でした。
13代・元経は、毛利元就の妹を妻とし、元就は元経の妹を妻とすることにより、吉川と毛利は姻戚関係になりました。
14代・興経は、あまりにも勇武であったことから、元就に嫌われ、隠居を強いられ、その後、謀殺されました。
元就の次男・元春は興経の養子となると、15代吉川家当主になりました。
関ヶ原の戦い
毛利元就の次男・元春が吉川家を継いでからは、小早川隆景(元春の弟)とともに宗家・毛利を助け、毛利の両川と称されるようになりました。
後に毛利・吉川・小早川の3家は、豊臣秀吉の旗下に入りました。そして、
秀吉の命による九州征伐の際、元春とその嫡男・元長が相次いで病死すると、元春の三男・広家が跡を継いで17代当主となりました。
17代・広家は、九州征伐の後、伯耆・出雲・隠岐・安芸の内14万石を領地とし、天正19年(1591)、出雲富田(島根県広瀬町)に居城を移しました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前後、広家は毛利家(西軍)の存続を計って徳川家康と密約を結ぶなど、手を尽くしています。その尽力により、毛利家は領土こそ、その多くを失い防長両国(現・山口県)に減封されましたが、存続することができました。
吉川家は周防の東端(玖珂郡と大島郡の一部、3万石、のち公称6万石)の地を分与せられ、城地を岩国に構えました。
岩国藩(江戸時代)
17代・広家は、初代岩国藩主となり、城下町の建設や干拓による新田開発、法令の制定など、その後の岩国・柳井地域発展の礎を築きました。
19代・広嘉(3代藩主)は、政治の拠点と城下町の間を流れる錦川に、洪水にも流されることのない橋「錦帯橋」を建設。これは昭和25年(1950)に台風の被害を受けるまでの276年間、流されることはありませんでした。
なお、徳川幕府により幕藩体制が確立するなかで、吉川家は大名格ではなく毛利家の家老格として扱われるようになりました。家格の復旧を毛利家に申し入れますが、認められず。両家の関係は悪化しました。ようやく両家の仲が復旧するのは、幕末の毛利敬親と吉川経幹(28代当主・12代藩主)のときでした。
明治時代以降
明治元年(1868)、吉川家は諸侯の列に入り、同17年(1884)、29代・経建のときに男爵を授けられ、同24年(1891)には子爵に昇叙されました。また、経健の弟・重吉も男爵を授けられました。
吉川重吉は、大面積の山林を購入し、林業経営に着手。これが現在の吉川林産興業株式会社の創業となりました。